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HOME  >  アクティブワールド  >  海外ボランティアとなる  >  ウズベキスタンのセレモニー3題

海外ボランティアとなる

ウズベキスタンのセレモニー3題

中央アジアのウズベキスタンに来て6ヶ月経ちました。最近経験した3つのセレモニーについて記してみます。

セレモニー1.経済学博士号取得審査会

私が勤めている、タシケントバンクカレッジの学長(と言っても年齢33歳)が、経済学博士号を取得することになりその最終審査会がありました。
私も学長の博士論文作成に多少お手伝いしたこともあってその審査会に出席しました。ウズベキスタンの経済学界のお歴々約15人が審査員として見守る中、論文の発表が始まりました。
論文は、「ウズベキスタンにおける起業家教育と政府の役割」と言うタイトルです。
当国の公の会議は通常はウズベク語で行われますが何故かこの場はロシア語でした。それは審査員の方々の多くが65歳以上で(多くは70歳を超えている)旧ソ連時代そのままの形式が保たれている為のようです。発表が終わると審査員一人一人が質問、コメントを行ったのですが、これが皆長い。

一人大体15分ぐらいはしゃべるので聞いている私としてはかなりつらい時間となりました。通訳(バンクカレッジでの私の講義を通訳してくれているイギリス留学経験をもつウズベク人の若者)も最初の内はきちっと訳してくれたのですが、そのうち訳がかなり疎らになり最後は要約と言うか意訳と言うか、つまり訳すのが馬鹿馬鹿しくなるほど空疎な質問内容なのでしょうか、最新の学識を持っている通訳君は"これがウズベキスタンの経済学会のレベルなのです"と皮肉っぽく言っていました。
例えば、この論文には今当国で話題になっているマイクロファイナンスが言及されていないとか、果ては、来週は私の75歳の誕生日でお祝いをやるから来てくれとか、論文の内容とはまったくかけ離れた質問、コメントの連続だったようです。
でも、発表者はこの質問に一つ一つ回答していました。

実際、審査員の方々も同僚の質問内容には興味が無いらしく彼方此方で私語が延々と続いていました。私語が消えたのは、遅れてやってきた高等教育省大臣が挨拶をしていたときだけで、これも15分ぐらいしゃべるとそこそこに引揚げていきました。
この論文はモスクワの経済アカデミーにも送られていてそこからのコメントも読み上げられていましたが内容は全く適切さを欠いたもののようでした。約4時間の発表と質問が終わると、審査員以外は退席し審査結果を部屋の外で待ちました。
やがて皆が部屋に呼び戻され全員一致で合格した旨発表されました。
通常、審査会で発表できれば合格間違いなしとのことで、審査会での審査を受け付けてもらうのに時間がかかるとのことです。
学長の場合も当初2月の予定だった審査会が審査員の都合で5月になってようです。

その後場所を変えてお祝いの宴会が始まり参加者は個室に分かれて食事とウォッカでの乾杯が始まりました。博士号を取得した学長は各部屋を回り乾杯を受け返しながら挨拶に大忙しでした。
各部屋では、順番に一人ずつ立ち上がって博士号取得を称えるスピーチとウォッカでの乾杯です。(文字通りの乾杯で一気に飲み干す)私の部屋には学長の恩師達、高等教育省の役人である弟さんを含め10人いましたので、都合グラスに10杯のウォッカを飲まされる羽目になりました。
私は9時ごろ帰りましたが(と言っても翌日そう教えてもらっただけでその夜の記憶は全く残っておらず翌朝目がさめてもどうやって家に帰ってきたのかも覚えていない体たらくでした。)深夜まで飲みつづけた人も居たそうです。恐るべしウズベク人。

セレモニー2.結婚式

私の通訳兼アシスタントのトシテミール君が結婚することになり式に呼ばれました。
彼は国の奨学金でイギリスに留学した経験をもつ優秀なウズベク人です。現在はウズプロム銀行と言う大手銀行に勤務しながらアルバイトに私の通訳をやり、更に大学で講義も受け持っている(国費海外留学者は帰国後大学で最新の知識を学生に教えるのが決まりとなっている)という超多忙な日々を送る若者です。
結婚相手は、親の決めた相手ではなく(当地では相手を親が決めるのが普通)、同じ銀行に勤める女性です。彼女は昨年大学の英文科を卒業して銀行に就職したばかり。
結婚後は職場を辞めるそうで何とももったいない感じがしますが、ここの慣習からすると当たり前なのかもしれません。
まず最初にベシャルク(花嫁の実家)で木曜、金曜と2日間式と披露宴が行われ、金曜日の午後にアクタシ(花婿の実家)まで車で移動し土曜日の昼と夜、披露宴がとり行われます。

2つの場所は800キロ離れています。両方に出席するものにとっては何ともきついスケジュールです。
私はトシテミール君とともに金曜日の午前6時にタシケントを出発、ベシャルクで行われた12時からの式と披露宴に出席し、その後午後3時ごろ車で花婿の実家へ向け出発、アクタシ村に到着したのは土曜日の午前4時でした。
花嫁は木曜の親戚を中心とした宴会、金曜日の式と披露宴を終え、アクタシへ着いたのはなんと土曜の朝8時。
アクタシでは昼間の親戚を中心とした宴会で花婿は開放されますが、花嫁は更に近所の女性のみが集まる披露宴に出席とこれまたハードな日程です。

式、披露宴とも地域によりかなり異なるようで、今回は花嫁側にいろいろな負担がかかるケースのようでした。 ただどちらも、地域、近所の人たちが式や披露宴の準備を手伝いまたお祝いする点と、男性と女性が別れて集うことが多いと言う点は同じです。
今回は海外帰りの若者とあって旧来の伝統に固執せず簡略化したところもある式だったようです。
(例えば、花婿の家に入る前に燃える火の周りを3回まわる儀式とか、花嫁花婿は結婚式の日から3日間は外へ出てはならない仕来りをちょっと省いたとか、式と披露宴を一体化したとか)式では市役所の職員にきてもらいその面前で婚姻届に署名した後、花嫁の母親の挨拶、親戚の挨拶、地域の長老の挨拶と続き、私もお祝いをウズベク語で行うつもりでした。が、1日かかって暗記したはずの短い文章はスピーチが始まったとたん頭から飛び去ってしまい慌ててメモを見ながらナンとか話し終えました。
でも、皆大きな拍手でこたえてくれました。

スピーチの後は、ウズベキ伝統音楽のライブをバックにお祝いのダンスを披露するのですが、このダンスは既に色々な場所で経験済みで――阿波踊りのようなダンスで誰でも出来ます――踊り始めると一緒に踊ってくれる人、肩に絹のショールをかけてくれる人(これはダンサーへの贈り物)、お祝いのお金(スム札)を握らせてくれる人等で本当に賑やかなお祭りの雰囲気です。
大きな拍手をいただいてそのまま席の戻ろうとしたら、いただいたお金はダンサーではなく、バンドの人にあげるのだそうで慌ててバンドマンに手渡すと皆大笑いしていました。

その後、来賓方スピーチの後のダンスにも参加し皆さんと暖かい交歓が出来ました。
式のお開きには、地域の長老に紹介され一緒に写真をとるなど和やかに楽しい一時を過ごし花嫁花婿のご両親、親戚の方々も喜んでくれました。皆の見送る中、午後3時、花婿の出身地のアクタシに向け出発しました。
トシテミール君の友人が案内兼通訳としてまたドライバーの一人として付いてくれました。翌日の午前4時にアクタシに到着、花婿のおじさんの家に宿泊。8時に起こされ9時に花婿の実家での宴席(参加者は男性のみ)に出席。
ベシャルクでそこそこ親しくなった花婿のお父さんに朝っぱらから早速ウォッカを勧められました。
ゲストの私が飲まないと皆飲めない、てなことを言われ1杯呑み干すと、花婿のために1杯、次は花嫁のために1杯と次々に理由をつけてウォッカを呑まされ完全に先方のペースに引き込まれてしまいました。
この間、別の部屋で行われている女性陣のみの宴席に、花嫁は居るのですがそこがどうなっているのか全く分りません。

同じようにウォッカを飲んでいるのでしょうか?でも私はウズベクの女性がウォッカを飲んでいるのを見たことがありません。
男性陣の行事はこれでおしまいですが女性陣は更に夕方宴席がある由。
本当にお疲れ様です、花嫁さん。当地の慣習では、花嫁花婿は結婚式の後3日間は部屋の外に出られない(部屋を赤いカーテンで仕切りそこから出られない)とのことですが、今回はその3日間を1日に短縮したそうです。
後でトシテミール君に聞いたら、この1日を睡眠不足と疲労回復のため有効に使ったと言っていました。
ウズベクの結婚式は大変なのです。興味深い体験をさせてもらった3日間でした。花嫁花婿おめでとう!(Tabriklayman!)

セレモニー3.博士号取得祝賀会

さて、博士号を取得した学長が出身地の学校に図書と奨学金(学長の父親名の奨学基金)の寄贈を行うことになり、私もその学校で行われる式典に参加することとなりました。
学長(ザイヌデインさん)の故郷はサマルカンドから150キロ離れた、綿花畑が一面に続く農村でウズベキスタンの代表的貧困地域とのことです。
(当国では、綿花が最大の輸出商品ですが完全な統制が行われており、ここの農民は綿花しか作れず作った綿花は全て政府が国際価格の何分の一かの低価格で買い取る仕組みです。
政府は、買い上げた綿花を国際市場で売却し農民に支払う価格との差額を財政に取り入れている訳で----つまり綿花生産取引税のようなもの----当国が目指しているはずの市場経済への移行とは全く相容れない制度が続いています。

この制度のため、綿花を栽培している地域はもっとも貧困な地域となっている由。)確かに、商店は何も無く電気はあるが水道はなく井戸、(井戸が無い家は子供達がバケツで水を運んでいる)道路はもちろんでこぼこで自然のまま。
その日はかなり暑かった事もあり綿花畑の用水路で子供達が素っ裸で遊んでいました。キャンデイーを一人にあげたらたちまち近所の子供達が集ってきてしまいました。
きっとどこからか我々を見ていたのでしょう。裸足の子も目立ちました。
ザイヌデイン学長の出身校は8年前建て直されたそうですが、以前はほんとに小さな建物だったそうです。(現在は小学校、中学校あわせて生徒数100名余)
この学校の校長先生が校舎を案内してくれましたが、ザイヌデインさんの座っていた机のそのまま残っており彼は懐かしそうに見つめていました。

(彼が卒業したのは17年前で16歳のとき)もちろんこの村から博士が出るのは初めてで、又この学校を訪れる外国人は私と連れのJICA青年協力隊員が初めてと言うこともあり式典は村の人全部が出席したのではと思われるような規模でした。
ザイヌデインさんの恩師も全員呼ばれており皆ウズベクの衣装(マントのようなものと帽子とベルトに使うスカーフのようなもの)を贈られていました。
私も生徒、父兄を前にスピーチをしました。(その場に、この地域の教育関連の役人が来ていたこともあり、日本の小学生がどんなに勉強しているか話して欲しいと事前に依頼をされていました。)
式典につきものの長い来賓の話で貧血を起こし倒れる生徒も出た(生徒達は立ちっぱなし)のにもかかわらず皆、興味津津と言う風情で聞いてくれました。

来賓の話が終わると、生徒達(小学4年生30人くらい)が、歌と踊りとちょっとしたパフォーマンスをやってくれました。
後で聞くとかなりの練習をしたそうです。音楽の先生が指導し彼の奏でる民族楽器が歌と踊りをバックアップしていました。
皆、汗だくで、でも途切れることも無くやってくれました。
1時間半くらいの式典でしたが、故郷に錦を飾ったザイヌデインさん、始めて訪れた外国人を迎えてくれた村の人々、そしてウズベキスタンの生徒達に合う機会を得た我々とそれぞれにとり良い一日のように思いました。

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